TTM対話録 #08
有松絞り
三浦鈴世さん&伏見嘉晃さん

2023.06.30
TTM対話録 #08<BR>有松絞り<BR>三浦鈴世さん&伏見嘉晃さん

有松絞りの文化が息づく伝統工芸のまち、愛知県名古屋市有松の開拓の歴史は16世紀に遡る。江戸幕府の保護、そして柳宗悦による民藝運動による繁栄と復旧を経て継承されてきた歴史の中で「一人一技法」として各部門に分かれて仕上げられるその技術は、家族や身近な人々からの口頭伝承を通し脈々と続けられて今日に至る。現在は10〜15軒ほどまでに縮小しながらも、時間と共に紡がれ守られてきた「有松絞り」にまつわる文化と生活について。

 

当記録は、その文化と歴史が生活に根付く日々を粛々と続ける人たちの物語でもある。

 

 

(インタビュアー 淡の間)

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早恒染色

三浦鈴世さんの話

 

『変わることを恐れずに、守っていくこと』

  

有松絞りのみならず、多くの工芸品は作品に歴史が深く滲み出る。歴史とは時間であり、その作り手の時間、すなわち人生そのものである。

 

基本的に一人一技法、分業スタイルで作品を制作していく有松絞りの工程の中で「染め」こと早恒染色の部門を担当する三浦 鈴世さんは、この道55年の熟年の職人で伝統工芸士の資格も有している。有松絞りとの出会いは、ただ家業だったから、家業を継いだ夫と共に。何もできない自分は染めと共にある生活をただ続けてきたと、淡々と語る。しかしその言葉少ない姿勢からは、この伝統を如何に途絶えさせないようにするかと言う静かな情熱が伝わってくるのだ。

 

「その技術をどうやって覚えたのですか?」という問いに対し、父と夫の背中を見ながら真似ていただけ、日々続けながら試行錯誤してきたと語りながら、三浦さんは流れるような動作で(絞りに使うための)染料を量って染液を作る。膨大な染料の棚を見上げて作業する様子はまるで薬草を調合する魔法使いのようでもあり、20世紀を代表するモダニズム陶芸家、ルーシーリーの生前の姿も心なしか重なる。

 

三浦さん曰く「染め」の中で最も重要なことは色づくりだという。染料の調合はその色の出方で制作物全体の印象が決まる重要な工程である。浸水させた白い晒しに染液を垂らしていく動作は、まるで絵画を描いているかのよう。淡々とこなしていく様子を見ると感覚が麻痺してしまうものの、それは絶妙な力加減と色出しによる職人芸そのもの。色づきが薄くても濃くてもいけない。まさに長年の感覚が物を言う動作を繰り返していく。

 

現在は作り手も生産量も年々減少傾向ではあるものの、1970年から80年代頃の生産量は現代とは比べ物にならないほどだったという。当時の背景といえば、日本民藝運動の中心人物である柳宗悦の依頼を受けた片野元彦が有松絞りを伝統工芸品として原点回帰させるべく、天然染料や藍を用いて制作し復興活動を行ったことで売上や生産量、知名度の拡大も含めて隆盛を誇っていた時代とも言える。

 

厳密に言えば「有松絞り」と言う名前がついているだけあって、本来であれば有松地域で作られている絞りの製品が「本物の有松絞り」なのかもしれないが、現役の作り手は非常に少なく、継承していこうにも生産規模が縮小され続けている。よって、有松絞りの技術は海を渡ってアジア地域にも生産背景を拡大させながら伝承されていると言う。

 

補足として、有松地域で作られている製品は”国内もの”、地域を越えて海外の作り手などを通して継承された物は”海外もの”と呼ばれる。このようにして、有松絞り全体に関する文化背景やその技術が新しく変化していくこと、”海外もの”として訪れたこともない場所の誰かがその技術を継承していくことに対してどのように思うのかと聞いてみたところ、半世紀もの時間を捧げて制作を続けてきた伝統工芸士の彼女にとって、現代の有松絞りの文化がこの街を抜けて別の地域の人々へと伝承・発展されていくことに躊躇いはないという。

 

誰が努めようと同じ人間が手がけているということは変わらない。時代に合わせて変わっていくことは当然。それよりも大切なのはこの文化が残ること、そして基礎を守っていくことなのだと。

 

三浦さんの語る基礎とは、長年の生活と共に続けてきたことそのもの。どれだけ時代と共に変化しようとも、現地の生産物が少なくなっていこうとも、職人はただ淡々と目の前の作業を続けていくことだと、少ない言葉のなかに強さが滲む。

 

「みんながやっていないことをするのは楽しいですよ」と言った時、少し口元が緩んだ。

 

変化は悪いことではない。変わることを恐れずに、大切なことを守っていくこと。

今日も淡々と、三浦さんの「色」が染められていく。

 

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手筋絞り職人

伏見嘉晃さんの話

 

『文化は無くなって当たり前、だから作れる間は絶対に手抜きしない』

 

有松絞りは「一人一技法」と言う分業制の工芸品である。最盛期には130ほどの種類を有していた伝統の技法も今では67ほどに減ったとはいうものの、絞りによる模様と染めによる色付けによって無数の柄が生み出される様子は、決して機械編みでは表現できない人間の生きたリズムによって描かれる生きた絵画のよう。一つの技法だけではなく、幾つもの工程を重ねて異なる模様が現れた総絞りの反物の美しさはまさに芸術品である。作業が複雑であればあるほど、その希少性や難易度に比例するように細かい華やかさが際立っていく。絞りの着物は贅沢禁止令の名残が残り、婚礼や茶会の席では禁止だとされるものの、本来はかつて徳川家に献上されるほどの格を有する第一礼装品でもある。有松絞りの反物は、武家の人間が着用する格式高い着物から百姓の手拭いに至るまで、昔から多くの人の生活(TPO)に寄り添う生活工芸品なのであった。

 

その数ある工程のうちの「くくり(絞り)」の担当こと、手筋絞りの職人である伏見嘉晃さんは実家の一部屋を使って日々作業を営む。伏見さんが手がける手筋絞りは、細く固く折り込んだ布地によって縦筋の模様を均等に生み出す技法である。有松絞りに携わってから修行の年数も含めれば約20年。物心ついた頃からすでに職人だった祖父母の傍で、遊んでいるうちに見よう見まねで技術を覚えて行ったという。均等に細かく折り込んでいくその方法は言わずもがな長年の技術を要する職人技かと思いきや「おそらく自分は筋がよかった。職人はただ年数を重ねればいいわけではなく、センスが重要だ」と語る。

 

昔は天井に届くほどの量をこなし、毎日のように家を業者が出入りしていたというが、量が減ったとはいえ今も常に休みなく稼働する忙しさ。自宅兼工房の部屋の中には伏見さん専用の器具や机、作業中の製品、無数のメモ、そして影響を受けたであろう映像作品のDVDやアートブックなどが積みあげられている。それを見ながら、有松絞りが生活の延長線上にあると言うよりも、もはや生活が侵略されているのだとぼやく。

 

休日であろうと、家族が先立った日であろうと、伏見さんは手を動かし続ける。このインタビューの当日も納品のために午前3時まで作業していたと言う。

 

「僕の先に何人の生活があるかと考えたら、絶対に止めることはできない」

 

これが手を動かし続ける目的。モチベーションなどと言う言葉では説明しきれない重みがある。

 

伏見さんはアメリカの大学に留学して卒業後、哲学を研究していた経歴を持つ。その最中に幸か不幸か、”絞りの神様”に見込まれた業か、研究の合間に手がけていた作品の精度を見込まれて職人としての依頼が増えていったという。

 

職人として、今後の伝統継承についての思いを聞くと意外な答えが返ってくる。

 

「一時期は残さなきゃとも考えたけど…一個の文化じゃん、文化はなくなって当たり前」

「だからこそ、作れる間は絶対に手抜きしない」

「それでも万が一、残すことができたらラッキー」

 

文字だけを見れば少し諦めが入ったように見えるかもしれないが、彼の口調に滲み出る熱い思いを受け取らざるをえない。この作品は彼の数十年の哲学、信念、人生そのものなのだと。最後の最後、手が動かなくなるまで作業台に向かって括り続けるのだろうと、途中の工程を見ながら一同はそう思った。

 

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