わたしたちは誰もが、ひとつのからだに宇宙を宿しています。心は星座、体は天体。生まれてくる前に決めてきた設定のもと、重なり合うグラデーションのような「宇宙の模造」が存在しています。
「チャクラ(chakra)」という概念に出会ったとき、私は、身体という星をめぐるエネルギーの地図のようなものだと思いました。
チャクラ(chakra)とはサンスクリット語で「車輪」や「円」を意味する言葉。私たちの体の軸に沿って配置されている7つの光がエネルギーエンジンのように静かに回っているイメージをしてみてください。
尾てい骨から始まり、下腹、みぞおち、胸、喉、眉間、そして頭頂へ。
それぞれのチャクラは、安心、創造性、自己信頼、愛、表現、直感、宇宙との繋がりといったテーマを宿し、目に見えないけれど確かに作用している「内なる風景」を映し出す鏡でもあり、まるで肉体という惑星に埋め込まれた光の羅針盤のようです。触感覚が鋭い人は身体に手を当ててみてください。じんわりと暖かくなるような、身体の内側でうごめくエネルギーを感じられると思います。
私が普段受けつけているカウンセリングにおいても、根幹的な問題にも通じることが多いのがチャクラのバランスです。例えば、人生のもっとも深い基盤を支える、第1チャクラ「ルートチャクラ」と、第2チャクラ「セイクラルチャクラ」と呼ばれるふたつのチャクラがあります。
ルートチャクラは生命の根っこ。尾てい骨にあり「生きるための土台」を司ります。安心、安全、信頼、自己肯定感。つまり、生きることそのものに対する「YES」の感覚。このチャクラが乱れていると、どんなに恵まれた環境にいても「わたしはここにいていいのか」と不安がよぎり、愛されていても「そのうち失うのでは」と怯え、人間関係の根本でつまづきやすくなります。
そうなると、常に不安で地に足がつかず、生きることに無自覚なまま日々をやりすごすような感覚に近いかもしれません。
一方で、セイクラルチャクラは生命の泉。下腹部に位置し、情動、官能、創造性、そして「わたしは感じていい」「求めてもいい」という内なる許可を司ります。このチャクラの動きが滞ると、自分のことがわからなくなります。欲望に蓋をしてしまったり、逆にさまざまな欲求にのまれすぎて自分を見失うことも。そして感情が水のように濁って流れなくなり、他者との関係においても本当の自分を主張できない・自信がないという閉塞感が生まれやすくなるのです。
他にも、胸のチャクラ(ハートチャクラ)が滞るとき、人に優しくしたいのに素直になれなかったり、愛されることに遠慮してしまったり、何気ない日常のなかで心が閉じてしまっている自分がいる。
一方、のどのチャクラ(スロートチャクラ)が滞る時、本当の思いを言えずにいたり喉が詰まったりする。逆にそのバランスが整うと、自分の想いを真っ直ぐに伝えられるようになったり、誰かの言葉に怯えずに言葉を自分のものとして使えるようになる。
チャクラという概念は、たんにスピリチュアルな幻想ではなく、身体と心の感度を通して感情や魂の状態を読み解くための道具のように感じます。これらのチャクラを整えていくための方法を調べるとスピリチュアリストやセラピストたちが試みるさまざまなアプローチが存在しています。例えばヨガや呼吸や瞑想、香りや音を使ってこのチャクラを整えていくことなど。色々な方面でのケアがあり、自分に合った方法を試すのも楽しく、興味深いと思いますが、まずは何より「日常のなかで自分の心や体に嘘をつかないこと」こそが、ご自分のチャクラを自然のままに動かす鍵になるのではないでしょうか。
わたしたちは、日々目に見える世界で懸命に生きながらも、本当はいつも目に見えないものに導かれています。
言葉にならない気配、説明できない不安、心にふと浮かぶ誰かの顔、湧き上がってくる欲望。
そうした微細なものたちが、肉体を通して感じられる感覚のさらに向こう側のレイヤーで静かに脈打ちながら、わたしたちを本来のリズムへと呼び戻しているのです。
「チャクラ」とは、そんな見えないリズムを言語化しようとした古の叡智のひとつ。心と体と言う宇宙の模造の内側で、そこに点在する軸のようなチャクラが整ってくれば、星の力をもっと有機的に感じられるようになります。
それはまるで、外側の現実が自分に追いついてくるような不思議な感覚です。
整えるための方法はなにも特別なことではなく「いま、ここにいる」ことをまるごと許すこと。
心が浮ついてしまったときこそ、まずは身体の声を聞くことに戻る。身体を通して感情の海と地面の確かさを思い出すこと。それが「わたし」という光の存在へと祈りを捧げる、地に足のついたスピリチュアリティのはじまり。
すり減る日々のなかで自分の心が閉じてしまいそうになるとき、それを無理にこじ開けようとせず、小さな小さなサインにそっと耳を澄ませてみてください。
光がわたしたちの中で、静かに、確かに、回り続けていることを感じながら。